トロツキーの半生
本当に波乱万丈な人生だったのですね。
トロツキーは、1879年に現在のウクライナ南部にあたるイワノフカで、ユダヤ系の富農の子として生まれた。学生時代の1896年に初めてマルクス主義に触れ、共産主義運動に入る。1898年には南ロシア労働者同盟の幹部として働いていたために2年の懲役刑を受けてオデッサで収監された。1900年からはシベリアへの流刑に処されるが、2年後に脱走した。トロツキーの姓は、この逃亡時に、以前オデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。
トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたウラジーミル・レーニンらのロシア社会民主労働党と合流した。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属する。
1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネストにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、永続革命論を提唱した。第一次世界大戦がはじまると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。
1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。
レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト・リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。
エピソード
1920年に著作『テロリズムとコミュニズム』を刊行し、革命のためのテロを奨励している。この著作は、現在も旧ソ連共産党古文書館にヨシフ・スターリンの蔵書として保管されている。なお、政敵で常にトロッキーを敵視していたスターリンもこの本のテロを賛美している箇所全てに「同感!」「的確!」などと書き込みを入れている。
赤軍を率いていた際、兵士の間で「白い虫(白軍)を殺せ」という歌がはやったが、トロツキーは「赤軍の役目は、白軍兵士を殺すことではなく彼らを武装解除することであり、白軍兵士も同じ階級なのだから、彼らを組織するつもりで戦おう」と訴えて、その歌を歌うことを禁じた。
トロツキーの亡命先のメキシコで、トロツキーが身を寄せていた住居が銃撃される。住居は要塞化され、トロツキーは秘書や支援者とともに「避難訓練」を繰り返した。トロツキーの秘書は、トロツキーの性格を考えて、なぜトロツキーが避難訓練に熱心なのか訝ったが、実はトロツキーにとって愛人宅に行くための「脱出訓練」だったことを知り、秘書は避難訓練をボイコットした。
メキシコ亡命中にフリーダ・カーロと不倫をしている。
革命当初、地方を回って督戦中、乗っていた車が反対派に包囲された。銃を突き付けられ万事窮したトロツキーは即興の演説を行い、敵を説得させて味方にしてしまった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
相互リンク
柏のデリヘル デリヘル 千葉 デリヘル 蕨・戸田 デリヘル 錦糸町 デリヘル 錦糸町 新大久保 デリヘル デリヘル 新橋 デリヘル 相模原 池袋のデリヘル