2008年01月31日

トロツキーの半生


本当に波乱万丈な人生だったのですね。

トロツキーは、1879年に現在のウクライナ南部にあたるイワノフカで、ユダヤ系の富農の子として生まれた。学生時代の1896年に初めてマルクス主義に触れ、共産主義運動に入る。1898年には南ロシア労働者同盟の幹部として働いていたために2年の懲役刑を受けてオデッサで収監された。1900年からはシベリアへの流刑に処されるが、2年後に脱走した。トロツキーの姓は、この逃亡時に、以前オデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。

トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたウラジーミル・レーニンらのロシア社会民主労働党と合流した。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属する。

1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネストにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、永続革命論を提唱した。第一次世界大戦がはじまると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。

1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。

レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト・リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。

エピソード
1920年に著作『テロリズムとコミュニズム』を刊行し、革命のためのテロを奨励している。この著作は、現在も旧ソ連共産党古文書館にヨシフ・スターリンの蔵書として保管されている。なお、政敵で常にトロッキーを敵視していたスターリンもこの本のテロを賛美している箇所全てに「同感!」「的確!」などと書き込みを入れている。
赤軍を率いていた際、兵士の間で「白い虫(白軍)を殺せ」という歌がはやったが、トロツキーは「赤軍の役目は、白軍兵士を殺すことではなく彼らを武装解除することであり、白軍兵士も同じ階級なのだから、彼らを組織するつもりで戦おう」と訴えて、その歌を歌うことを禁じた。
トロツキーの亡命先のメキシコで、トロツキーが身を寄せていた住居が銃撃される。住居は要塞化され、トロツキーは秘書や支援者とともに「避難訓練」を繰り返した。トロツキーの秘書は、トロツキーの性格を考えて、なぜトロツキーが避難訓練に熱心なのか訝ったが、実はトロツキーにとって愛人宅に行くための「脱出訓練」だったことを知り、秘書は避難訓練をボイコットした。
メキシコ亡命中にフリーダ・カーロと不倫をしている。
革命当初、地方を回って督戦中、乗っていた車が反対派に包囲された。銃を突き付けられ万事窮したトロツキーは即興の演説を行い、敵を説得させて味方にしてしまった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年12月26日

公職選挙法

時代の流れに応じて近年の動きは異なっているようです。

地方の首長選においてローカル・マニフェストの配布が2007年の統一地方選挙から、「ビラ」という形で解禁される見通しとなった。

現在の公職選挙法では公示日から選挙日が終了するまでの間、候補者の名前の入った選挙運動(投票依頼)目的の文書図画については、選挙管理委員会が発行するシール又はハンコのついた一定枚数の文書図画しか発行できない。総務省はWEBページ、ブログ、電子メールも文書図画にあたると解釈し、なおかつ、WEBの更新については新しい部分だけでなく過去のものも一体のものとして頒布・掲示したことにあたると解しているため、同省は「候補者は選挙期間中WEBサイトを更新できない」という立場をとっている。電子メールについては、内部の事務連絡に使用するのは問題ないが、不特定または多数に投票依頼を行うことは文書図画の頒布にあたると解している。(政治家がメルマガを発行し続けることについての見解は不明。) このため、現在は総務省の見解を尊重すると、選挙期間中インターネットを利用した選挙活動(ネット選挙)を行うことが出来ない。ただし、この解釈は一度も司法の審判を受けていないため、社会的に定着しきっているとは言えず、総務省・選管とインターネットを使用して選挙運動を行いたい候補者・市民との間で「両すくみ」のような状態になっている。この状態を解消するため、インターネットを利用した選挙運動を明文で認める、公職選挙法の改正案を提出しようという動きがある。

また、2007年の東京都知事選のある候補者の政見放送がネットで注目され、加工されたものを含めてYouTubeなど動画サイトに多数アップロードされた事態をうけて、東京都選管は146条の脱法文書規制ではなく政見放送の回数の公平性を理由としてプロバイダーに当該動画の削除要請を行ったが、これはネットについての選管の態度を見定める上で注目に値する。

2007年4月17日には長崎市の市長選挙の期間中、現職の市長であり候補者であった伊藤一長が暴力団関係者に銃撃され翌日早朝に死亡、上記の補充立候補の期限切れギリギリに2人が追加立候補をしたが、多くの無効票が発生したり、補充候補者の選挙活動期間の他の候補者との差が出たり、選挙期間中に候補者が銃撃されて死亡した事件のショックが覚めやらぬ中での選挙など、多くの問題が発生した。この為、期日前投票を含めた現行の公職選挙法の見直しの話題が出ている。具体的には、期日前投票のやり直し(一旦破棄した上で再度投票してもらう)、選挙実施日の延長などが候補に挙がっている。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月30日

原始・古代の石川県

こんな感じだったんですね。
おもしろいです。
もう一度いってみたいな。

県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡(灯台笹=とだしの)など、極めて少ない。続く縄文時代の遺跡では能登町の真脇遺跡や金沢市新保本町のチカモリ遺跡で、大量の木柱根が出土し話題となった。同遺跡で縄文後期の祭祀施設らしい巨木を配置したウッドサークルが見つかっている。

県域は古くは越前国の領域に含まれていたが、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国守に赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。また823年には越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立国され、これが令制上最後の立国となった。

奈良時代から平安時代初期には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し、現・志賀町に渤海使接待のための能登客院も設置され、交易も行われた。源平の戦いでは、木曽義仲が倶利伽羅峠で平家をやぶり、京都に進んだ。室町時代には加賀の守護は冨樫氏、能登の守護は畠山氏であった。


中世
応仁の乱のころ浄土真宗が加賀に進出、やがて農民らによる一向一揆が守護の冨樫氏を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以である。本願寺は後の金沢城の位置に金沢御坊を作り、ここを拠点にして支配した。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登を前田利家に、加賀を佐久間盛政に与えた。信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀も領して、金沢に入城した。


近世
関ヶ原の戦いで家康についた利家の息子、利長は越中全域も含め、約120万石を領する大大名となった。前田家は産業・工芸に力を入れ、城下町金沢は江戸末期には人口で日本4位の都市へと発展した。江戸時代に置かれた藩は金沢藩、大聖寺藩があり、城代の置かれたものに小松城がある。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月08日

日本テリアって知ってる?

初めてしりました。
ぜひ一度お目にかかりたいです。

系統は、具体的には不分明。 1700年代に、オランダから長崎に渡来したスムース・フォックス・テリアを祖として小型の日本犬を配し、後に神戸で日本的に改良したものであるという。

ただし、スムース・フォックス・テリア自体、犬種としての固定は1862年ごろまで下るので、伝えられる年代が正しいとすれば、厳密にはスムース・フォックス・テリアではなく、その原種犬が日本テリアの先祖ということになる。

ほかに、トイ・マンチェスター・テリア、イタリアン・グレーハウンド、トイ・ブル・テリアなどの血が入っているのではないかとも考えられる。

主に神戸や横浜などの港町で、抱き犬としてかわいがられ、「神戸テリア」「お雪テリア」「ミカド・テリア」などの愛称で親しまれた。「お雪テリア Oyuki terrier」の名は、アメリカの大財閥であるモルガン家の御曹司と結婚して有名になった女性の名によるもので、彼女はこの犬のファンであったという。

1920年ごろから計画繁殖が行われ、1930年ごろ(昭和初期)にタイプが固定された。 1930?32年には日本テリア・ブームが起こったが、特に1932年(昭和7年)にはブームが爆発し、日本テリアの繁殖や売買譲渡が投機化するに至った。 しかし、この年に大阪で組織された「日本テリア倶楽部」を筆頭に、研究団体が全国に次々に樹立されると、これらが互いに連繋して、さらなる固定洗練への堅実な努力が積まれるようになった。

不運なことに、日本テリアの隆盛は、太平洋戦争の開戦によって終止符を打たれた。 戦時中は、軍用犬を除く他の全ての犬種と同じく、日本テリアの数も激減した。 絶滅のおそれもあったが、戦後、愛好家の努力によって甦ることができた。

愛玩犬として、日本テリアは現在も、熱烈な愛好者をもつ。 しかし、戦前のような幅広い人気が回復することはなく、日本原産犬としては、最も知名度の低いものの1つにとどまっている。 そのため、数も比較的少なく、絶滅を危ぶむ声もある。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
『無料で登録できるサイト』
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2007年10月06日

佐藤アナ職場婚

日本テレビの佐藤良子アナウンサー(27)が入籍していたことが2日、分かった。お相手は同局の報道局員のAさん(38)で、年の差11歳のカップルとなる。佐藤アナが以前担当していた「NNNきょうの出来事&SPORTS MAX INDEX」で、Aさんと一緒に仕事をしたことがきっかけとなり交際がスタート。9月下旬に入籍した。
 実力派の美人アナが、“たれパンダ似”の癒やし系男性と職場恋愛を実らせた。
 佐藤アナは2003年4月から「NNNきょうの出来事-」を担当。番組の構成などを決めるデスクだったAさんと出会った。仕事で指導を受けるうちに、お互いの人柄にひかれ合い交際へと発展。出会いから4年たった先月、入籍した。佐藤アナは、同月下旬に担当の番組スタッフに報告。スタッフから花束をもらうなど温かく祝福された。さらに、夏休みを取り、2人で新婚旅行としてハワイへ出掛けたという。
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